中国人民病院訪問記
今年の夏はあまりの暑さでどこへも行く気がせず、診療所の職員に急かされて5日間の夏休みを取ってみたものの、さりとて行く当てもなく、仕方なく旅行社に入って「僕はどこへ行ったらいいですか?」と聞いてみたのが、そもそもの始まりであった。「それなら神仙が住むという、中国の黄山が涼しかろう。」ということで旅先が決まった次第である。
さすがに物見遊山だけではつまらないので、黄山の麓にある、歴史的には徽州と呼ばれ、硯や墨の名産地として多くの知識人や安徽商人を輩出した歙(きゅう)県(人口50万)という地方都市も見学することにした。内陸部にしては比較的清潔で裕福な都市で、そこの県外交部にお願いして、病院も見学させてもらえないかと願い出たところ、「見せるほどの立派な病院ではないから…」と婉曲に断られそうになり、「いやいや、自分は地元の人民が普段行きつけの病院を知りたいだけです。」と懇願して、ようやく許可が下りた。 歙県人民病院は320床の古びた病院で、徽州府の城内に位置しているため、早朝、外来を受診しょうとする病人の車列と荷馬車の往来でごった返し、アクセスするだけでも一苦労。
小児科は25床。4人部屋と6人部屋に家族が付き添っており、かなり窮屈そうでプライバシーも何もないような感じだが、中国では家族が付き添うのは当たり前。こうして皆がガヤガヤしているのが文化というものだろう。その一角にあって、ストレスでかなり衰弱している男児にはちゃんと心拍モニターを付けていたので、ある程度の医療技術も必要に応じて投入されている様子が伺えた。
小児科は主任1名、副主任2名、レジデントが3名おり、さらに引退した老医師も外来を担当している。従って、当直は月に5-6回程度。中国では点滴の差し替えは全てナースの仕事なので、医師は夜間2-3回呼ばれることはあるが、基本的に「眠れる」状況にあり、翌朝に勤務してお昼には帰れる体制にある。しかし、当直料は20元(260日本円)と聞いて、本当にビックリした。それでも医師の給料は社会的には中級レベルにあるらしい。また、数年前から年金制度が始まったため、老後に備えて公務員は皆、過去に遡って控除額を支払っているという。
中国には小児科開業医は存在せず、田舎には開業医は居るものの、何でも屋で米国のfamily medicineと想像してもらえば良いとのこと。従って小児の診療は全て病院が受け持ち、この病院では外来 で毎日40-50名の患者が訪れる(2診体制)。
診察はわずか1元(13円)。意外に外来患者数が少ないようにも感じたが、しかし、薬剤の自己負担は5割なので多少の風邪だったら、民間の薬局で済ませるらしい。また、夜間には救急外来はなく、どうしても診てほしい場合は、家族は患児を医師が当直している病棟まで連れて行き、診てもらう事になっており、ある意味受診抑制にもつながっている(そういう意味では、日本はサービス過剰かな?とも思えてきた)。
高額医療については、政府は2万元(日本で26万円)までは補助してくれるが、それ以上は自腹になるので、大病はやはり人民にとって大変な経済的負担になるようだ。前日のテレビ報道でも、山東省では実験的に白血病や先天性心疾患に対して政府が治療費をカバーしてくれる試み(日本で言う慢性特定疾患でしょうか?)が始まっており、それでも、報道の最後には患者の氏名を公開して寄付を募っていた(このあたりがいかにも大陸的で、単刀直入で見ていて気持ちがいい)。
一方、一人子政策により小児科医が不足なのではとの問いに対して、現在全国的に小児科医の不足はなく、だからと言って各科に対する総量規制もないとのこと。5年間の医学部を卒業して、一年のインターンを経た後、自分の希望科を表明して国家試験を受け、合格すればその科に進み、レジデントが終了すれば、病院の正式職員になれるらしい。専門医試験も近い将来、導入することを検討されているが、従って現在、県立病院レベルでは専門外来は存在しない。循環器などの難しい病気は遠くの小児病院へ行くしかない。
外来を見学して興味深かったのは、カルテなるものが存在せず、患者が各自健康手帳を医師に差し出し、診察した医師がその手帳に病歴、診断名と処方内容などを書き込んでいくスタイルが徹底していることだった。患者が別の病院へ行った場合でも、そこの医師が経過を理解できるようにとの配慮らしい。医師の手元に残るのはわずか患者氏名と住所を書き込んだ一覧表だけになり、そういう意味では情報が公開されているが、ご多聞に漏れず、ここの医師も小生に劣らず読めない字を書くので、ひとまず安心?
一方、予防医学については、予防接種は7種類。指定された期日に、各地区の公衆衛生ステーションに赴いて接種をうけることになっている(集団接種)。体調が悪いときは、無論予備日はあるが、接種を受けていない人については徹底的に追求するので、接種率はどの種類も殆ど100%に達している(このあたりが社会主義の良い点でもあるのだが)。接種は公衆衛生士が行い、このような単純行為に対して小児科医のマンパワーを投入しないところがいかにも合理的で好ましい。
里帰り出産は禁じられている(産後出血など医学的に?それとも一人っ子政策の管理のためか?)代わりに、実家の祖父母が約1か月手伝いに来てくれ、生後の自宅訪問もこの公衆衛生ステーションの医師が行い、地域全体を守っている感じがした。日本で今問題になっている虐待現象については首をかしげておられた。無論、生理的なmaternity blueで子どもを叩きたくなることはあるものの、夫婦共働きが殆どのこの社会においては、女性は産後5ヶ月には社会復帰するので、精神的には孤立することは少ないのが印象的であった。特に、この地域は歴史的に文化度が高いため、伝統的な中国医学(新安医学)が発達し、なかでも今日なお有効とされる産婦人科、耳鼻科や小児科各分野においては、地域の公衆衛生ステーションでは今なお色濃く漢方が生かされているが、場合によっては帝切することもあるという。
最も中国の一人っ子政策のせいか、生まれた子に「万が一」のことがあってはいけないとの思いから、帝王切開率が極めて高く、この人民病院においても46%、さらに近くの個人病院では70%の高率に達しているのには閉口した。帝切が安全であることへの過信、それに大安吉日への迷信、はたまた産科医の儲け主義に、この社会主義国家においては皆がこぞって給料の2-3倍の大金を出産につぎ込み、産直後の母乳や母子結合などと言った「生物として営み」は、とっくにどこかに吹っ飛んでしまい、「腹を痛めて産んだ子」の意味合いは、この国では違う風景を連想するらしい。
躍進する中国において、人々の健康を守ってきたこの砦も近くで新病院を建設中であり、来年には約500床の病院として生まれ変わる 。
新生児ICUも予定され、そのための小児科医を増やす計画だとか。さらに、2012年には近くに新幹線の駅が開通する(上海~杭州~広州)ため、マンションの値段もここ1年で倍に跳ね上がり、「投資するなら今のうちですよ」と運転手に勧められた。
あの太平天国の乱を逃れて、海外に活路を見いだした安徽商人たちが故郷に錦を飾ろうと夢まで見たご当地の徽州にあっては、人々が夜な夜な集まって興じる黄梅劇の節回しの中においてしか、ノスタルジーを見いだすことのできない今日この頃である。